中国茶ブログぼちぼち日記

清香花楼:/中国茶ブログぼちぼち日記

清香花楼スタッフの中国茶ブログ。中国茶の種類、効能、入れ方、飲み方のほか、中国茶にまつわる歴史、こぼれ話など。2008年-2009年:スタッフ渡部担当。2010年-:販売の小林担当。中国茶ぼちぼち日記。

サントリー烏龍茶のCMと「中国」

サントリー烏龍茶のホームページへ行くと、最新の広告やCMが掲載されています。
2017年3月現在、「烏龍茶」のCM紹介はリンクが切れていて、画面を少しスクロールすると、「肉!ときたら、」というキャッチコピーが強調されています。
一方、「黒烏龍茶」の広告紹介のほうでは、YouTubeにアップロードされたCMが見られます。ミランダ・カーさんが日本語と英語を入り混ぜて「黒烏龍茶」のプレゼンテーションを大勢の聴衆の前で行っています。「脂マネジメント。」というキャッチの「マネジメント」という言葉からは、これは特に忙しいビジネスマンを潜在ターゲットに制作したCMなのだろうかと推測されます。

ミランダ・カーさんが「黒烏龍茶」のCMに起用されたのは、2014年か2015年頃だったかと思います。私がはじめて見たのはテレビのCMではなくて、Yahoo!Japanポータルサイトのトップに表示されたバナー広告でした。記憶に残っているのは、サイドの余白に黒いドレスを着たミランダ・カーさんがすらりと立ち、スタイリッシュなボトルを手にしていて、そして「KURO」という美しいフォントの文字が目に飛び込んできたことです(細かい点は記憶違いがあるかもしれません)。「こうきたか」と、思わず唸り、普段は滅多にクリックしないバナー広告をカチッとクリックしたのを覚えています。

中国茶専門店のブログでこんなことを書くのはやや気が引けるのですが、サントリーの烏龍茶は、偉大な存在です。
お茶飲料(Soft drink)はお茶(Tea)ではないという理屈をこえて、サントリーの烏龍茶は、疑いもなく偉大な存在です。

烏龍茶ブームの嚆矢となった面もさることながら、長い間、サントリーの烏龍茶のCMでは、ひたすら「中国」が題材とされてきました。「中国」は、まるで通奏低音のように、烏龍茶商品の背景に常に意識され、描かれるべき像として、お茶の間のブラウン管/液晶パネルに茫洋と広がっていたのです。実際、80年代、90年代、2000年代と、サントリー烏龍茶の古いCMを見ると、その時々の日本人が、「中国」というものにどういうイメージを抱いていたのかを窺い知ることができます。

1986年「家族篇」
相変わらず売れ行き好調で、いつのまにかCMを年一本、レギュラーでつくることになっていた。中国へは入国できなかったので、イラストにするしかなかった。春、 大人たいじん夫妻は美しい娘をさずかった。二人から三人へ。

1987年「お茶の葉主義/茶摘み篇」
アニメ展開に限界を感じ始めたとき、中国へ入れるという知らせが入った。ウーロン茶初の中国ロケ敢行CM。やはり最初は茶摘みだろうと、ウーロン茶の聖地武夷山ぶいさんにて茶摘み篇。中国は想像以上の異郷だった。

1988年「お茶の葉主義/茶工場篇」
前年の武夷山につづき、二大産地のもうひとつ 安渓あんけい の茶工場で撮影。当時は「日中国交」レベルのつきあいで、昼も夜も宴会。日本人はネクタイ着用だった。珍動物フルコース料理に感激しつつ、みな即席ラーメンを部屋で食べてた。

1990年「京劇院篇」
茶産地の福建省を離れ、中国を代表する大きなお茶としてのウーロン茶というつかまえ方に。京劇院にて、前を向く若者たちを撮影。カメラ上田義彦さん、監督前田良輔さん。ウーロン茶的広告世界が定まった。

サントリーウーロン茶 歴代CM集(SUN-AD 安藤隆氏コメント)より引用

80年代の「お茶の葉主義」というコピーをきっかけに、90年代-2000年代にかけて、一貫して中国現地でのロケを敢行しています。岩茶産地の武夷山、鉄観音の産地の安渓、そして水墨画の世界そのままの桂林へ。ロケ現場はお茶産地から離れることもありますが、そこでは「お茶」をモチーフとしながらも、人民服風ののどかな農村、伝統的な京劇舞踊やカンフー、まだ近代化の途上にあるかのような郊外の風景など、当時の日本人が一般的に抱く「中国」のイメージが肯定的にコラージュされていました。
それは、日本人の目を通して描かれた「中国」であり、中国の現実の風景を日本人の視点から「かくあれかし」と構成し直した仮構的理想郷であったかもしれません。
ただ、この烏龍茶CMを媒介として描かれた「中国」は、事実として日本人の無意識裡に鮮明な像を形作ってきました。2000年前後をピークとした日本国内での中国茶ブームは、いかに本場の高級茶を志向する専門店であったとしても、このサントリー烏龍茶のCMによって描かれた「中国」像に(直接、間接を問わず)大きく依存していたことは否定できません。いささか大仰に懐古するなら、戦後の日本が平和国家としてその繁栄の頂点を極めたとき、日本人にとっての「烏龍茶」は、まさに「中国」のイメージを代表する中心的な存在であったと謂えます。異国の茶畑からきた茶色で透明なきらきら光る不思議で素朴なお茶。そのお茶の中に、日本社会はスクリーン上にしか存在しない桃源郷のようなものを夢見ていたのです。

例えば、1992年の「ドライブ篇」と言われている30秒間のCMにおいては、冒頭から半ばほどまで、何の説明もなく中国語の会話が流れます。
二人の女性による中国語の音声は、静かな高音で揺れる電子音のBGMにかぶさり、意味は一切不明のままです。カメラは霧の中の林の風景をロングショットで捉え、その色彩は息をのむくらいに美しく、淡いブルーが灰色の粒子に溶け込んでいます。遠景に白いワンピースの中国人女性二人の半身がうっすらと浮かびあがります。つづいて、この霧の中の畦道をメーカーも年代も不詳の小さな白い車が音もなくゆっくり走り、そしてフェイドアウトします。流れている中国語の会話の意味をお茶の間の日本人は理解できません。というよりも、それを理解する必要もなく、その中国語の響きそのものに世界を変貌させる価値があると信じさせるかような密度の高い時間が流れます。
CMの20秒ほどでようやく日本語のキャッチが入り、髪の毛をまとめあげた白いワンピースの女性が遠くを眺めながらなにか飲み物の入った容器をゆっくりと口にし、フェイドアウトします。その瞬間の彼女の表情は神秘的で、うっすらと笑みを浮かべているように見えます。これが烏龍茶のCMだと分かるのは最後の1秒か2秒にボトルと缶のラベルが映るからで、見る人はわずか30秒の間にぎっしり2時間の映画を見たかのような眩暈に似た幻惑を体験します。
純粋に映像作品として見ても、この完成度の高さには刮目すべきものがあります。このような表現がテレビのCMで許容されていたのは、やはり当時の日本社会に「中国」をイメージする想像力の余地が大きかったからだと思われます。

そして、90年代末から2000年代に入ると、「世界の工場」と言われる中国へ実際に赴任/出張する日本人駐在員なども増え、「中国」の成長と実像が、烏龍茶のCMにおいては明るくポジティブなトーンで描かれることになります。折しも北京オリンピックの開催が決定し、広告制作の現場としても、「中国」にポジティブな価値を付与するのは自然な流れだったのかもしれません。
桃源郷はもはや夢見る彼方ではなく、その神秘性は薄れ、実在性を帯びたリアルな幸福感とともに描かれます。

チャイナドレスで踊る「上海ブギウギ」は、あろうことか「東京ブギウギ」のあられもないパロディであり、その陽気さと可愛さと明るい色彩感覚が、2002年の現実の上海の街並の中に描写されます。遠い桃源郷の代わりにあるのは、おいしそうな桃の形の饅頭であり、ガラス越しに調理する小龍包であり、外灘のクルージングであり、それらは多くの日本人が実際の中国旅行で目にするものと同じリアリティーで表現されています。

また「自分史上最高キレイ」「中からきれいになる国」「自分をお強く」などというコピーは、2017年の今からはまったく想像もできないほどに楽観一色で、その中国/中国茶へ注がれた日本社会からのまなざしは、わずか10数年前とは思えないほど隔世の感があります。
2003年、厳寒の大河をジャケにしたサントリー烏龍茶のCMソングがCDになりましたが、おそらく、清涼飲料市場でのウーロン茶の出荷数も、この頃がビークだったのではないかと思います。

このポジティブなトーンに変化が生じるのは、2005年の反日デモ以降で、上記SUN-AD様のサイトには、その年の現地ロケが中止になった由も記載されています。その後、品質訴求のためいったんは茶畑シーンに回帰しますが、広告としてはややインパクトに欠けたのでしょうか、2006年に入ると、まだ多くの人にとってその記憶に新しいであろう「姉さんは、ずるい」のシリーズがはじまります。
それまでの「お茶の葉主義」路線から、食事と一緒に飲む烏龍茶という、現在の「黒烏龍茶」にもつながる機能的な側面に焦点をうつすことになります。

しかし、この「姉さん」シリーズにおいても、その姉妹がまさに中国人であり、中国語で会話をしているという設定において、烏龍茶のCMから「中国」が消えたわけではありません。
舞台は普通のキッチンであったり、プールサイドであったり、バレエの練習室であったりと、ステレオタイプな「中国」は影をひそめましたが、彼女たちの話す中国語はソフトに心地よく響き、「中国」はまだ日本のお茶の間において、特にその音声において、一定のイメージを持ち得ていました。しかも、ほとんどの中国語のセリフには日本語字幕がつき、設定もシナリオも視聴者に理解されるべきものとして演出されていたのです。
トントンという名の妹は、容姿端麗な大学生の姉に憧れと嫉妬のまざったコンプレックスを抱いています。姉はいつもあんなにたくさん食べるのに、太らない、、、姉の手料理はとても美味しい、、、姉にはボーイフレンドもいる、、、私は綺麗になるためにバレエをはじめた、、、なかなか上手くならない、、、でもがんばる、、、この時、日本人は、この「中国」を軸として描かれた二人の姉妹のストーリーを、日本社会と同一線上にある日常の世界として受け入れていたのかもしれません。
異国の理想郷は旅行的なエキゾチシズムを経て、今度は日常世界の延長にある地続きの空間として描かれました。ここに、「日本」と「中国」の奇妙な融合が、CMという短く儚い映像上で実現したのです。

2009年には「君とはじめて飲んだお茶、イー、アー、サン、スー、ウー、ロン茶、・・ロン、ロン、ロン、ロン、ウーロン茶」と、中国人の母娘、そして父娘が、全編を日本語/中国語混じりで歌うCMが制作されています。これがきわめて特異なのは、従来のBGMのように日本の原曲をアレンジして中国語で歌っているのではなく、中国人の出演者が日本語歌詞を覚えて歌をうたっているということです。
サントリー烏龍茶20年来の達成点といっていいような表現かもしれませんが、皮肉にもこれを境にCMの方向性は反転し、その内実の構想力は無慚にも保守的なものになっていきます。

最後に「中国」が描かれたのは、同上SUN-AD様サイトの記述によると、ファン・ビンビンさんが福建省アモイの海岸でカツサンドを頬ばりながら「烏龍茶」を飲んでいるシーンです。
これも「食事+烏龍茶」という路線で、スクリーン上の「中国」はかなり中和されたものになっていますが、ヒロインが有名な中国人女優であり、BGMにアラレちゃんのテーマソングが中国語で歌われていたりもするので、その通奏低音に「中国」を使おうという意思が残っていたことは間違いありません。「中国」でありながらも「日本」と通じ、しかしそれが現実にどこにあるのか分からないような世界。アモイの海岸は限りなく中性的で、それがアモイだと説明されなければ、そこが「中国」だとはほとんど誰にも認知されません。ファン・ビンビンさんは一言半句も何語も話さず、ただ食べ、ただ飲み、カメラはその表情を執拗にアップで映します。

ファン・ビンビンさんの食べるものは、カツサンドだけではなく、カレーであったりラーメンであったり小龍包であったりしますが、主眼は「食べる」というシーンを強調することです。
2006年の「姉さん」シリーズにおいては、中国人姉妹と彼女たちの中国語の響きで象られる生活感がその舞台設定の中心を占めていましたが、ファン・ビンビンさんのシリーズにおいては、「中国」的なるものはCMを構成する二次的な要素にとどまっています。モチーフとしての「中国」は、日本のお茶の間の空気を壊さないよう配慮されており、それらはすべて置き換えることの可能なインテリア/小道具として周到に配置されています。ある意味、この段階ですでに「中国」を舞台として撮影する優位性は失われつつあったと見るべきかもしれません。
これが2011年のことで、以後、烏龍茶のCMから「中国」はほぼ完全に姿を消すことになります。

2011年は震災の年として記憶されますが、中国との関係でいうと、この年の初め、中国のGDPが日本のそれを抜き、中国が世界第2位の経済大国になるというニュースが流れました。
そして、翌2012年秋には、再び反日デモが(2005年よりも大規模な動員で)発生します。この際の日本語メディアの報道は、日本人の対中感情を悪化させた決定的なものでしたが、SUN-AD様のサイトを読むと、このデモ発生よりも前に、すでにCMの撮影現場を日本に切り換えていたことが分かります。時代の空気に敏感でないと広告制作は難しいのでしょうが、二十数年つづいた中国ロケをやめるのは、大きな決断だったのではないかと思います。

その意思決定がどんなものだったのか、一般には知ることはできないのですが、中国ロケで烏龍茶CMの撮影を担当されていた上田義彦氏の言葉は、いま読んでみても、とても示唆に富んでいます。

サントリーウーロン茶の写真やCMを撮ったり、演出したりしながら、約20年が経とうとしています。中国のあちこちに行き、印象深い人々と出会ううち、「はるか感」などと言い始めたのは、中国の広大な土地と人々の暮らしを見て、自然に出てきた言葉です。
この広告作品を通して、もう一人の私が自然に立ち上がってきたように思います。ゆっくりと流れる時間の中にどっぷりと身を浸し、安藤隆氏、葛西薫氏、高上晋氏らと広告をつくる。そうやって出来上がって来るものへの喜び、これは一人でつくる作品では味わえない全く別の喜びです。この仕事と関わることが出来た幸せを、とても強く感じます。
そんな中で起こる中国での出来事は、私にとって、不思議な言い方に聞こえるかもしれませんが、全て夢の中のように思えます。そしてこのサントリーウーロン茶の広告をつくるために集まったたくさんの人々と一緒に、夢をつかまえる旅だと思っています。その旅が終わり、飛行機が日本の空に近づくと、急に現実に帰って来たのだという、何か夢から覚めたような淋しい気分を抱くようになりました。
私にとってサントリーウーロン茶の写真を撮ることは、それを見る人々に一瞬の夢を見てもらう、いわば夢先案内人のようなものだと思います。いい夢を見てもらえるように、私自身、いい夢を見ようと思っています。

FUJIFILM Fotonoma 上田義彦氏インタビュー(2008年12月)より引用

今思うと、ウーロン茶の仕事は宝物をいただいたんだなって思います。もう2度とできないような仕事を、ある時期、ちゃんと、精一杯やらせていただいた。これまでの広告を見て、つくづく思います。

AdverTimes. 上田義彦×葛西 薫が語る写真と広告 「光、形、言葉、なにやらかにやら」(2014年10月)より引用

対談の語り口から、上田氏、葛西氏、両氏ともにすでにサントリー烏龍茶のCM制作には携わっていないことが推察できます。少なくともCMを完全に過去のものとして語っている上田氏の降板は明らかで、2012年前後に、サントリー烏龍茶のCM制作チームの編成に大きな変更があったことが想像されます。

事実、2013年からの烏龍茶CMは、日本人の普段の食生活にとけこんだ「烏龍茶」を描きます。肉、脂、食事などというキーワードを軸に、日本人の日常の食生活に「烏龍茶」をひきつけることによって、CMはその商品としての日常性を強調しようとします。舞台は日本、メインの出演者は日本人のみ、語られるセリフも日本語のみです。それは、もしかしたら「夢から覚めた淋しい」ものかもしれませんが、「中国」にポジティブなイメージを投影するのが難しくなってしまった日本社会の「現実」でもあります。

「肉!ときたら、ウーロン茶」という断定は、従来からの「食事+烏龍茶」路線をさらに推しすすめたものですが、このコピーには、それまで烏龍茶CMを構成してきた「中国」的要素の不在を不問にするかのような号令的な響きもあります。CMのキャプションが新聞の折り込み広告のようにベタなのもおそらくは確信犯で、ここで志している唯一のことは、ウーロン茶という「中国」のお茶が、「日本」のお茶の間の空気とさかしらに対立しないようにすることです。そして、それは数字的には一定の成果を得たのだろうと思います。

かくして「烏龍茶」から「中国」のイメージが薄くぼやけて見えにくくなった、満を持してとさえいえるようなタイミングで、冒頭にも触れた、ミランダ・カーさんの登場になります。

ミランダ・カーさんの黒烏龍茶のCMは、「中国」を完全に封印することによって成立しています。
「中国」というものを、表層上微塵も感じさせないことによって、その商品としての日常性、日本人の食生活と共にある「烏龍茶」をアピールしています。

これは、今の日本人にとって、「中国」がネガティブな像になってしまっているから、その負のイメージを商品から払拭したという風に解釈するのが自然かもしれません。しかし、果たして本当にそうなのか。確かに、CMは商品の売上を伸ばすためにあるのだから、わざわざ「中国」を前面に出してマイナスになるようなCMをつくってどうするのだ、と考えるのが妥当でしょう。しかし、本当にそうなのか。
私は数年前にYahoo!Japanのトップページで黒いドレスに身を包んだミランダ・カーさんの颯爽とした姿に虚をつかれて以来、この「本当にそうなのか」という問いを、何度も自分の中で繰り返しています。
なぜなら、もし仮にミランダ・カーさんの烏龍茶CMが中国のテレビで放映されたとしても(契約上はありえない仮定かもしれませんが)、それは多くの中国人にとってなんの違和感もなく、概ね好評価で受け入れられるだろうと容易に想像されるからです。ただし、彼女は英語/中国語を話し、チャイナドレスを着ることになるかもしれませんが。

ミランダ・カーさんは、日本人でも、中国人でもありません。彼女の存在は、日本人に「中国」のことを忘れさせてくれるカムフラージュではありますが、同時に、彼女の黒烏龍茶のCMは、「日本」と「中国」という二項対立的な視点そのものを無化し、第三者の立場からその商品の価値を語りかける多声的な効果を内在しています。なので、あとはそれを「日本」のサイドから演出するのか、「中国」のサイドから演出するのか、その視差こそが本質的な問題ということになります。

同じものを見るにも、違う角度から見ると、別のものに見えることがあります。こちらから見えるものが、あちらからは見えないということもあります。逆に、こちらからは見えないものが、あちらからは見えるということもあります。見えるものと見えないもの、そしてそれによる人間の認識/感情のぶれは、視差が生み出している現象としての歪みであって、そのぶれや歪みそのものに実体はありません。
極端に逆説的な言い方をするなら、ミランダ・カーさんの存在は、日本社会が見たいと願っている「中国」像のアレゴリカルに変容した代替的投影であるという解釈さえ成り立ちます。

ありきたりの表現ですが、CMは時代を映す鏡です。そして、その見方で考えるのなら、「中国」は烏龍茶のCMから消えたわけではなく、日本人の心象から「中国」が消えたのだということになります。より正確には、「消えた」わけではなく、「消えた」ということにしておきたい、見たくないから見ない、聞きたくないから聞かない、ミュートにしておく、と敷衍するのも、あながち見当違いとは言えないのではないでしょうか。

スクリーンの表層から消えた「中国」は、日本人の無意識裡に冥冥と漂流していて、いつかまた、その像を(ポジであれ、ネガであれ)結ぶことがあるかもしれません。それがいつになるかは分かりませんが、私はまたサントリー烏龍茶のCMに、新しい「中国」が現われることを、静かに、心ひそかに期待しています。

一陽来復~陰陽の茶席~留香茶藝

先日、東京浅草で開かれた地球にやさしい中国茶交流会を訪れました。
この中国茶交流会は、毎年行われているようで、私ははじめてだったのですが、予想していたよりも会場が広く、出店されているショップさんもとても多くて、びっくりしました。

その中で、今回私が参加させていただいたのは、留香茶藝さんの「一陽来復~陰陽の茶席~」です。
留香茶藝
Singapore留香茶芸-Liu Xiang 茶心

 

シンガポールの留香茶藝流派で資格取得をされた日本の茶友会のかたのアーティスティックな茶席で、一般的な中国茶の茶芸とはだいぶ趣を異にしていました。テーブルコーディネイト、茶器の選定、また、どんなに良い茶葉も煎数は3煎までや、茶器の洗浄も茶席の流れに含めるなど、大陸の中国人にはない視点や発想で美しいお茶の空間を創出されています。

一陽来復というと、早稲田の穴八幡宮のお守りを連想しますが、もともとは「易」を由来とした言葉で、陰の符号5本に陽の符号1本で表される旧暦11月の季節(冬至)を指しています。純陰の卦から再び陽の卦が下に一つ兆すということで、この時期を境に、陰から陽へと季節が移り変わっていくので、転じて物事が良い方向へ進むという意味でも使われます。

 

陰の茶席では清香系の鉄観音、陽の茶席では濃香系の鉄観音1992年老茶を頂きました。それぞれの茶席は、陰=月=女性、陽=日=男性を象徴するようなテーブルコーディネイトと茶器の選定がなされていましたが、両席が二元論的に対立するというニュアンスはなく、陰は陰として前後があり、陽は陽として前後があり、陰の中には陽が潜み、陽の中には陰が潜み、どちらもそれ自身で完結された空間でありながらも、同時に、コントラストな演出によってそれぞれの茶葉の味わいが深くなるというような、相補うパラレルな要素を強く感じました。

また、私が特別に心に残ったのは、お茶を頂いたあと、それで茶席が終わりになるのではなく、茶器の洗浄をその席の流れの中で行い、茶席に参加した人みながそれをじっと見つめていたことです。
中国茶では、淹れる前に茶器を温めるためにお湯で流したりもしますが、留香茶藝さんの茶席では淹れる前だけでなく、淹れた後においても茶器にお湯をそそぎ、また、それぞれの茶器をお湯で丁寧に洗浄します。その茶器の洗浄も茶席であり、茶器を洗っている間の時間の流れの強度が、なんというか、お茶を頂いている間の時間の強度よりも鮮明に印象に残るため、もしかしたら、茶席というものは本来お茶を頂くのが目的ではなく、むしろ、茶器を洗うためにお茶を頂く、その茶器を洗う主の滑らかで流麗な手つきをじっと見るためにお茶を頂いたのではないかという、複雑な感情に駆られます。

これは、道具を大切にするということでもあるのでしょうが、しかし、それ以上に、この茶器を洗う時間の流れ方の強度が一体どんな思想を担っているのか、なかなか難しい問いです。茶芸は、お茶の空間全体としてありますが、空間だけでなく、そこに時間が流れないと一つの宇宙にはなりません。
人が時間を感じるためには、集中力のようなものが必要で、なにかに集中して自分の意識がその流れと一体化していると、自分の意識は流れている時間そのものに近づきます。そして、時間というものは、循環をします。茶席の終わりに茶器を洗うのは、茶器を洗う=次の茶席のはじまりということでもあり、これは、終わりがはじまりに繋がるという「易」の思想の顕れなのかもしれません。
また、禅では、食事や食器の洗い方にも作法がありますが、それは、そういう日常の動作一つひとつが禅であるという世界観に基づいています。留香茶藝さんの茶席にも、それに通じるものを感じました。

 

留香茶藝
左が陽の茶席、右が陰の茶席です。

留香茶友会のかたは、シンガポールの李自強先生を師匠とし、それぞれ中国茶サロンや講師などとして活動されています。
今回、陰の茶席の堀井美香様と小西美和様は、ZENVAVA-禅ファッションの禅意茶服を素敵に着こなしていただきました。ありがとうございます。

 

鳳凰単叢鴨屎香

「中国で一番飲まれているお茶は緑茶」というのが定説で、10年くらい前の情報だと「7割から8割が緑茶」ということになっています。
その比率が生産量なのか消費量なのかよく調べたことはないのですが、そういう数字をだしている機関がどこかにあったのは確かなのだろうと思います。

ただ、御存知のように中国は無暗矢鱈と広く、福建省の一部の地域にしか住んだことのない私としては、「中国で一番飲まれているお茶は緑茶」と言われても、素直にそうだと得心もできず、「???」というクエスションマークが頭の上についてしまいます。

体感的には、福建省ではやはり烏龍茶がよく飲まれていて、10年前の福州だと7割から8割が鉄観音、あとの半分は武夷岩茶、残りの半分がそれ以外、という印象でした。

最近になって、正山小種や金駿眉などの武夷紅茶、また福鼎白茶が怒涛のトレンドとなり、知り合いの家にちょっとお邪魔するととりあえず小種紅茶がでてくるということも珍しいことではなくなったような気がします。いまのアモイだと鉄観音の体感比率は4割から5割くらいに低下しています。まあ、あくまでも個人的な体感ですが。

もちろん福州やアモイで緑茶が飲まれていないわけではなくて、春の新茶の時期には前回のブログ(と言っても半年以上前の記事ですが、、)でも触れた龍井茶など街の茶館の店頭でもちらほら見かけます。ただ、一年を通じての流通量は、上海や杭州と比べたら圧倒的に少ないのではないかと思います。

この龍井茶と同じように、銘茶であるにも関わらず福建であまり消費されていないお茶として、鳳凰単叢があります。

単叢は、広東省潮州市鳳凰鎮烏ドン山の特産烏龍茶で、薫り高く、贔屓目なしで評してもすごく美味しいと思うのですが、福建と雲南という二大産地に挟まれているためか、どういうわけか地元(のはずの)広東のマーケットでも劣勢苦戦しているという、なんとも不遇を託つ茗茶のように語られてきました。

ところが、その不遇のイメージから脱却するような兆しがここ一二年で感じられます。その象徴が、鳳凰単叢鴨屎香(ヤースーシャン)の流行で、その名前からは俄かに信じがたいのですが、蜜蘭香よりも蜜蘭だということで、単叢フリークの間ではいまや蜜蘭香と人気を二分するまでポピュラーになっています。

私がはじめて鴨屎香を飲んだ時には、実は名を知らずただ単叢ということでいただいたのですが、一口飲んで爽やかに広がる回甘の強さに感動し、「これはなんという名の単叢ですか、まったく苦味がありませんね」と、目の前の、茶を淹れてくれた褐色の女性に尋ねると、こういう問いをもう幾たびもやり過ごしたのだろうと察せられる不敵な笑みをうかべて、傍らの鉄缶の蓋に印刷されている文字「鴨屎香」をコンコンと指さすので、その字が私の目にうつり意味の咀嚼をこなそうとしても、どうにも茶そのものの滋味と字の解釈がちぐはぐで咄嗟に言葉を返すことができず、茶ではなく女性の着ているやや艶やかすぎるのではないかとその時思ったマゼンタ色のブラウスの襟を数秒間じっと見つめていたのを思い出します。

というわけで、私の中で鴨屎香という茶の不可解さは艶やかなマゼンタのブラウスと結びついているのですが、これはまさに一期一会とでも呼ぶべきものかもしれません。理屈の立たない連想ですが、私にとってはいままで一番美味しい単叢で、この先も同じ味には二度と会えないだろうと確信しているからです。「美味しい」という感動は往々にして一回性のもので、同じ条件下においてもその感動は反復されません。だからこそお茶は「美味しい」のだと思います。

 

茶商によっては、鴨屎香は大烏葉の別称で、大烏葉単叢の清香タイプが鴨屎香だと説明する人もいます。つまり、鳳凰単叢も鉄観音のように焙煎の軽い清香製法が編み出されて、それが鳳凰単叢の新しい普及に一役買っているということです。

単叢の清香製法は「抽湿」と言われ、焙煎加工の最後に真空状態マイナス40度で冷却をして、その急激な温度変化によって茶葉から水分を抜き去ってしまうという製法です。機会があれば間近で見てみたいものですが、ただ漫然と見てもどうしてこれで茶葉そのものの自然の甘味が顕在化するのかは化学的に理解できないだろうと思います。茶師自身に成分分析的な発想はないので、かなりのトライアンドエラーで生み出された技術に違いありません。

上の画像の鴨屎香も、いままでの伝統的な焙煎の単叢とは違って、だいぶ緑色をしています。茶葉だけ見てこれは単叢かと言われても、私はたぶん分かりません。火入れが軽い茶葉だというのは分かりますが、実際の製造直後はもっと鮮やかな緑色で、常温で保存している数か月の間に色合いが徐々に変化したのではないかと想像します。

抽湿法の鴨屎香が一過性のブームで終わるのか、それとも清香鉄観音のように定着するのかの見きわめは、もうしばらく時間の経過が必要かもしれません。

ワケあり明前西湖龍井2015年

どうしてそんな茶葉をアップで撮影してアップするのかと中国茶を知っている人からは怒られてしまうかもしれませんが、
題名のとおり「ワケあり」龍井茶です。
いや、ワケありもなにも、そもそも市場で手に入る龍井茶は大半がはじめからワケありなのではないかと言い募る人もいるかと思いますが、これは間違いなくワケありの茶葉なので、わざわざ「ワケあり」を名乗るが正直で正統だろうと思います。

前回紅茶のことを書いた後にやはり春の香りが恋しくなってしまい、杭州西湖区のさる茶農家さんから画像の茶葉を送っていただきました。
別に正真正銘の明前西湖龍井(のワケあり)ということを意識しなくとも、届くや否や封を切った瞬間の芳ばしい香りに一目惚れならぬ一嗅惚れしてしまい、「もうこれでいいだろう、今年の緑茶は」と妙に独りごちて小躍りをしたい気分になってしまいました。

どちらかというと日本人にとって中国の緑茶はとっつきにくいのですが、それは日本が緑茶文化で、スーパーの千円の煎茶(洒落ではありません)がもう充分に美味しいというのも関係しているかもしれません。
もちろん清涼飲料水やティーバッグの原材料として中国の緑茶(いわゆる茎茶)も日本に大量に輸入されてはいるのですが、中国で一般に販売されている緑茶とは異なります。
日本の緑茶と中国の一般の緑茶で括目すべきは製法の違いで、日本の緑茶は蒸して熱を入れるのですが、中国の緑茶は「炒青」という炒る製法で熱を入れて発酵を止めます。
この製法の違いは味や香りの違いにもなり(いい喩えではないかもしれませんが、茶碗蒸しをフライパンでつくることはできないという当たり前のシーンを想像してみてください)、中国の緑茶には煎茶のような舌の上で綺麗にまとまるある種の洗練さが欠落しています。
一口啜ると「これは茶ではなく、もしや草では、、」などと訝るくらいに自然そのままの荒々しい(というか生々しい)茶葉もあります。

しかし、龍井茶は、とっつきにくい中国緑茶の中では比較的なじみやすいほうなのではないでしょうか。
英語圏で緑茶というとこの龍井茶(Dragon Well Tea 文字通りの「龍の井戸の茶」)が筆頭にリストされることが多く、
それは名前にドラゴンがついているのでオリエンタリズムを掻き立てるという面もあるのでしょうが、
それ以上に、やはり外国人が実際に飲んでみて普通に美味しいと感じられる普遍性のようなものがあるからだと思います。

日本で通販をしている時によく「上海旅行のおみやげで西湖龍井茶というお茶をもらったのだけど、その値段を教えてほしい」というお問い合わせをいただきましたが、これにはなんとも説明のしようがなく、答えに窮してしまうことがありました。
パッケージに書かれている漢字(店の名や会社名)を日本語の読みで伝えてくれるのですが、それを聞いても値が分かろうはずもなく、いい加減なことも言えないので、
「いや、すみません、よくわからないです」と答えました。
「だいたい高いのがいくらくらいとかでいいから教えてよ」
「いや、その高いやつがよくわからないんですよ」
「でも相場ってものがあるでしょ」
「その相場がめちゃくちゃなんです」
「あなたお茶屋なのにそのくらいもわからないの」
「ところで、その龍井茶、美味しいですか」
「まあ、美味しいわね」
「じゃあ、めでたいことじゃないですか」
などという会話も記憶の断片にあるのですが、要はおみやげの龍井茶も普通に飲んで普通に美味しいものがあるということです。

西湖龍井は摘み取った日の夜に製茶師が手で釜で炒るのですが、その釜入りの過程で非常に芳しい香りが生まれます。
掌の茶葉の香りを嗅いでいると思わずぱりぱりと茶葉を齧ってしまいたくなるくらいの芳ばしさです。
本来はこの香りや味わいで茶の真価が決まるべきなのですが、マーケットではどの茶畑のどの時期のものかが重視されており、
毎年予約ですべて捌かれるブランド畑の茶葉がはたしてどこまで価格相応なのかは疑問です。
同じ畑の茶葉を同じ人間が製茶しても、決して同じお茶にはならないからです。

ただ時期というのは重要で、やはり早春に摘む芯芽のほうが美味しいのは確からしいと考えています。
分析したわけではないのですが、冬の寒さを耐え育ったはじめの茶葉にはなにか成分的に違うものがあるのかもしれません。

今回は3月23日摘みの龍井茶を茶農家さんからいただいたのですが、これは製茶の過程で茶葉の形が崩れてしまったものです。
ワケありと言ったのはそのためで、うっかけ煎餅のようなものです。

また、画像の中にいくつか玉のようなものが見えますが、芽の表面の毫毛が集まって丸くなったものです。

坦洋工夫紅茶

春なので自然に緑茶が飲みたくなるのですが、この冬はずっと坦洋工夫紅茶を飲んでいて、朝の習慣になってしまいました。
坦洋工夫(tanyang gongfu タンヤンコンフー)というのは、福建省福安市坦洋村産の紅茶です。

福安は、工芸茶ジャスミン茶の産地でもあるのですが、もともとは紅茶の名産地でもありました。
ここ数年の中国での紅茶ブームのお蔭で、この銘柄も息を吹きかえしたかのようです。
福安市内にはあちこちにこの銘柄の派手な看板や広告があり、もはや完全に紅茶の町になっています。
郊外には人口の半分以上がお茶で生計を立てている村もあるので、日本人的に言うならば、さながら
「紅茶で村おこし」ということになるかと思います。

味のほうは、なんともいえないまろやかさと、舌全体をふわりと包みすうっと徐々に広がる微妙な甘さが特徴です。
ミルクや砂糖なしで十分に甘みがあり、ストレートで啜って味の広がりや口中での変化を楽しみます。
芳醇というような形容がふさわしい茶葉で、ほかにいい表現が思い浮かびません。

質はやはりピンきりなのですが、そこそこの値のものでゴールデンチップ盛りだくさんの茶葉に出会えます。
ゴールデンチップというのは、金色に見える芽のことで、新芽のいいとこどりのようなものです。
この按配が味の奥行に一番影響しているので、高値のものはすべてゴールデンチップだったりもしますが、
普段飲みにはあまり、、、(以下略)という気もします。

小売でものすごい気合のはいった高級パッケージ品がべらぼうな値で売られていることもあり、
もちろんそれはそれで一つの商売なのだろうとは思うのですが、
お茶本来の存在意義からは離れてしまうので、個人的にはちょっと複雑な気持ちにもなります。
(もっとも、ギフトとしての需要は確かにあるので、その路線自体を決して否定はしません。
というか、要はそれが成り立ってしまうだけのマーケットがいまの中国にはあるということなのですが。)

ただ、坦洋工夫はまだ知名度が美味しさを凌駕していない銘柄なので、良質のロットが入手しやすいという面もあります。
お茶好きにとっては間違いなくコスパのいい茶葉に入るでしょう。
正直、これを飲んでいるとほかのお茶が飲めなくなってしまいます。

工夫というと、日本語では「くふう」で、あれこれ創意工夫するの工夫です。
中国語の工夫(カンフー)はというと、音が同じなので、ついつい功夫(カンフー)を連想してしまいます。
ちょっと検索すると、ふたつの言葉が同じように使われているケースもあるようで、へえと思いますが、
お茶のほうでは「工夫茶法」として有名で、茶壺にお湯をかける中国茶の飲み方として日本でもよく紹介されます。

てっきり坦洋工夫の「工夫」もそこから派生したのだろうと思っていたのですが、
どうも事情は逆のようで、時代をさかのぼると、19世紀には工夫茶=福建紅茶として意味が定着していたようです。
当時の福州の税関に「South China Congou(=Gongfu)」という項目があり、もっぱら紅茶のことを指しています。
19世紀アメリカ人は朝ベッドの中で砂糖たっぷりの紅茶を飲んでからでないとベッドから起きあがれないという習慣を持ち、
また、英国人のアフタヌーンティーで「Cougou/カングー」といえば、福建紅茶=ブラックティーの等級の一つでした。
もともとは、武夷山の紅茶のことで、「小種スーチョン」に次ぐ等級の呼称として使われていたようです。

工夫茶=紅茶という言葉が普及すると、華南や台湾の茶人の間では、いつの頃からか自分たちの茶の飲み方を
「工夫茶法」と名づけるようになり、それを商売に応用しました。
なので、いま知られている中国茶の入れ方(中国茶芸)は、日本の茶道のような伝統というよりも、
むしろ、20世紀の中国茶産業が生み出した拡販ツールという性格のほうが強いといえます。
実際に陸羽の「茶経」を読んでみると、そこで描写されている茶道具には、日本の茶道のほうにこそその面影を感じます。

目下の坦洋工夫と18-19世紀のアメリカ人・英国人の味わっていたカングーがどこまで相通じるかは定かでないのですが、
クセになるというか中毒性があるというか、まことにお茶は嗜好品であるという点において時代と場所は問わないということなのでしょう。

ちなみに、現在の坦洋工夫の輸出先はロシアがメインのようです。

茶を飲む人数と碗数について

だいぶ間が空いてしまいましたが、陸羽「茶経」を読む12回目です。

基本的に「茶経」第6章を読み進めるかたちでブログを書いていましたので、

今回は第6章の最後の段を読んでみたいと思います。

「さて美味で香り高い茶は、その碗数は三。これに次ぐ碗数は五。

もし座客の数が五人になれば三碗を行い、七人になれば五碗を行う。

もし六人以下なら、碗数を定めない。

ただ一人分だけ足りないときは、その雋永(ぜんえい)で欠けている人の分を補う。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 167ページ)

ここは、どうもよくわかりにくい箇所です。

布目さんの解説でも、正直、上記の訳以外に解説らしい解説はなく、

「理解の不十分な点を残した」と締めくくっています。

淡交社「茶経詳解」より前、1976年初版の東洋文庫「中国の茶書」においては、

「茶会の常式は奇数の人と定めているが、

偶数の人の時はとくに定めがないということであろうか。」

と書いています。

原文もいたってシンプルで、どう意味を補えばよいか手がかりはありません。

先ず、「碗数」というのが、

茶器の数なのか、茶を淹れる回数なのかがわかりません。

どちらにも解釈できるように読めますし、

また、どちらも間違っているようにも読めます。

茶器(茶碗)の数と解釈すると、

五人で茶を飲むのに三つの茶器、七人で飲むなら五つの茶器、

六人以下なら茶器の数を決めないということになり、

文意そのものは通るには通りますが、

数を指定することになんの意図があるのか不明です。

五人で茶を飲むなら五つの茶器をそろえればいいのではないか

という素朴な疑問が解消されません。

また、碗数を茶を淹れる(煮る)回数と解釈すると、

五人で茶を飲むのに三回、七人なら五回、

六人以下なら回数を定めないということになり、

これも意図のよくわからない文章になります。

そもそも五人のことで数を定め、しかし六人以下では定めないというのも、

五人は六人以下なのだから土台矛盾な表現で、

布目さんは、六人以下というのを偶数と解釈すべきかと言っていますが、

そうすると、六人や四人の偶数で茶を飲むことと、

三人や五人の奇数で茶を飲むことのあいだに

いったいどんな違いがあるのかわかり兼ねます。

もしかしたら、陸羽のよって立つ「易経」の世界観に照らして、

三、五という奇数になにか特別な意味を見ることができるかもしれませんが、

「茶経」四章のように道具の数にこだわるのとは違って、

茶を飲む集いの人間の数にこだわるのは、

あまりニュートラルではないと思われます。

最後の文「一人分だけ足りないときは、雋永で補う」の「雋永」は、

「第一煮の味のすぐれているところ」の意です。

茶器が一人分足りないのか、茶の分量が一人分足りないのかわからないのですが

その足りない分は、はじめの茶の一番美味しいところで補うということで、

ここもどうにも文意がつかみにくい箇所です。

補うためにはじめにとっておくのなら、それは足りないわけではありません。

足りているのでそれで補えるわけで、

本当に足りないのなら、補えないということになります。

原文は「但闕一人而已、其雋永補所闕人」です。

ここはもしかしたら、一人分の茶が足りない、というのではなく、

茶を飲むべき人が一人足りない、ということかもしれません。

一人足りないなら、茶でその足りない人の不在を補おう、

その人のために一番美味しい茶をとっておこう、

もしくは、その人のために美味しい茶を飲もう、と敷衍できます。

こう読むのなら、文意が成り立つのではないかと思います。

ただ、いずれにせよ、この段で陸羽がなにを表現しようとしたのか、

いまひとつよく理解ができません。

また機会があれば考えてみたいと思います。

追記
私がこのブログをさぼっている間に、布目さんの「茶経詳解」が文庫化されていました。
しかもKindle版まであります。中国史や中国茶に興味のある方はぜひご一読を。

茶経
2017-01-17T15:18:36+00:002014年12月22日|Categories: 中国茶ブログぼちぼち日記, 陸羽「茶経」 by ぼちぼち|Tags: , , |

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2017-01-17T15:18:36+00:002014年8月21日|Categories: 中国茶ブログぼちぼち日記, 工芸茶 by ぼちぼち|Tags: |

ああ天が万物を育てるのに・・・陸羽の嘆き

陸羽の「茶経」を読む、第11回目です。

第8回-10回までは、餅茶の飲み方として、

代表的な茶器「風炉」の説明などをいたしました。

今回は、第6章に戻り、続きの第4節から読みたいと思います。

「ああ天が万物を育てるのに、すべてきわめて巧妙なところがある。

人がつくるものは、ただ浅薄安易をあさっている。

風雨から遮蔽されているのは家屋であり、家屋は優れ極めている。

寒さを防ぐために着ているのは衣類であり、衣類は優れ極めている。

飲と食は飽くほどしていて、食と酒はみな優れ極めている。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 164ページ)

この箇所では、陸羽の伝えたいことは、

表面上、かなり明快に書かれています。

天の育てる万物は巧妙だが、

しかし、人がつくるもの(家や服や食べもの)は、

いかに優れていようとも、浅薄安易なものである。

このように、陸羽が自分の意見を感情的に表現するのは、

ストイックな描写の多い「茶経」の中では、とても珍しいと思います。

布目さんは、さらにこう解説しています。

「天然自然のものでよいのに、衣食住に人工の華美を極めていることを批判し、

暗に茶こそ天然の美味があるとを述べようとしている」

(布目潮渢「中国喫茶文化史」岩波書店 179ページ)

華美な衣食住への批判的なまなざしがあるのは確かだと思います。

しかし、「暗に茶にこそ天然の美味がある」とは、どうでしょうか?

茶が天に育まれたものなのか、人のつくったものなのか、

陸羽はここで、はっきりと明言はしていません。

文意を反語として理解すれば、布目さんのような解釈は正当だと思います。

が、実際には、この節の要は、陸羽が反語でしか語れないということ、

正にそのものの中にあるのではないでしょうか。

茶は、ある時は天のものでもあるし、ある時は人のものでもあると、私は考えます。

それは、天のものとも言えないし、人のものとも言えない、

そういう二重性も孕んでいると思います。

茶が文化として普及、流通するならば、

そこには、家屋や衣類や飲食飲酒と同様に、

天のものではない要素がどんどんと増えていくでしょう。

しかし、一方で、そうして広く普及した茶にも、

天のものとしての要素は、幾許かなりとも備わっているはずです。

なぜなら、どんな茶葉も、自然の恵みの中で育まれるからです。

「ああ天が万物を育てるのに、すべてきわめて巧妙なところがある」

陸羽の嘆きは、そうした茶の矛盾にこそあるのかもしれません。

それでは続きは次回で。

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2017-01-17T15:18:37+00:002011年10月2日|Categories: 中国茶ブログぼちぼち日記, 陸羽「茶経」 by ぼちぼち|Tags: , |

「茶経」の茶器 風炉2

陸羽の「茶経」を読む、第10回目です。

今回は、茶器の風炉(ふろ/ふうろ)についての続きです。

該当の箇所の後半を引用いたします。

「三窓の上に、古体の文字で六字を横書きにし、

一窓の上に、『伊公』の二字を書き、

一窓の上に、『羹陸』の二字を書き、

一窓の上に、『氏茶』の二字が書いてある。

これは『羹(あつもの)では伊公、茶では陸氏』という意味である。

炉の中に中高い小山を置き、三個の格を設け、

その一格に翟(きじ)の図がある。

翟は火の禽(とり)である。离という一卦を画する。

その一格に彪(虎)の図がある。

彪は風の獣である。巽という一卦を画する。

その一格に魚の図がある。

魚は水の虫(動物)である。坎という一卦を画する。

巽は風をつかさどり、离は火をつかさどり、坎は水をつかさどる。

風はよく火をおこし、火はよく水をあたためる。

故にその三卦を備える。

風炉の飾り文様には、連ねた葩(花)、垂れた蔦、曲水、

四角な文様の類がある。

その炉は或いは鉄を鍛えてつくり、或いは泥をめぐらせてつくる。

その灰承は三足の鉄盤でつくり、炉を載せる。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 79-80ページ)

風炉の横に三つの窓があり、文字が書かれています。

風炉を図示した場合、そこに左から二文字ずつを並べると

「茶氏」「陸羹」「公伊」となり、そして、これを右から意味わけすると

「伊公羹」「陸氏茶」となります。

「羹」は、”羹(あつもの)に懲りて膾を吹く”のことわざにある「羹」です。

中国の古代から伝わる肉入りのスープのことで、

殷の時代の湯王に仕えた伊尹(いいん)が、

その羹料理の名人として有名でした。

陸羽はその羹の名人と名を連ねるようにして、

「羹なら伊公、お茶なら陸氏」と自ら褒め称えます。

(参照:同上 83ページ)

次に続く「中高い小山」は、原文は「しちりん」とも解釈されうる言葉で

イメージすると、鼎を逆さにしたようなものです。

三本の「格(わく)」があり、風炉をはめこむような形にして

火元の置き台として使用したのではないかと思います。

(布目さんの本は語義の解説は豊富にあるのですが、

使用法が簡明に書いてなく、これはわたしの推察になります。)

そして、その三本の格にはそれぞれ図があり、

その三つの図が、やはり五行の思想に裏打ちされた意味を担います。

魚(水の動物): 「坎」=「水」

雉(火の鳥): 「离」=「火」

彪(風の獣): 「巽」=「風」

(参照:同上 84-85 ページ)

このように、陸羽の茶道の中心となる茶道具の風炉は、

易経の五行思想に典拠しながら

万物の要素を体現するものとして意味づけが行われています。

それは、茶を飲むということが

自然と人とのつながり、その接点の一つとして、

陸羽が考えていたことの現われでもあると思います。

それでは続きは次回で。

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「茶経」の茶器 風炉1

陸羽の「茶経」を読む、第9回目です。

今回は、茶器の風炉(ふろ/ふうろ)についてです。

該当の箇所の前半を引用いたします。

「風炉(灰うけ)

風炉は銅や鉄を鋳造してつくる。昔の鼎(かなえ)の形のようで、厚みは三分、

縁の広さは九分、炉の中は空洞で厚みは六分、そこには、こてで土が塗りつけてある。

炉には三足があり、古体の文字で二十一字書いてある。

一足には『坎(かん)が上に、巽(そん)が下に、离(り)が中に』とある。

一足には『体は五行を均しくし、百疾を去る』とある。

一足には『聖唐が胡を滅ぼした明年に鋳る』とある。

その三足の間に三個の窓があり、底に一個の窓があり、

そこは通風と燃えかすを落とすところとした。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 79ページ)

風炉は、日本の茶道で現在も使われているものと用途が同じです。

陸羽が茶経で説いている茶器の中では中心的な存在で、

お湯を沸かすための釜の台として使われます。

銅や鉄で鋳造され、その厚みは0.9センチ(1分=約0.3センチ)、

中の空洞が1.8センチで、内側には土が塗られています。

また、上の円をなす縁どりの厚み部分は、2.7センチの幅で作ります。

鼎のように三本の足があり、それぞれ7文字ずつ、合計21文字を刻みます。

「古体の文字」とは、隷書体のことのようです。

それぞれの文字の意味は、以下の通りです。

「坎(かん)が上に、巽(そん)が下に、离(り)が中に」・・・

原文は「坎上巽下离亍中」です。

「坎」「巽」「离」は、『易経』の八卦で、それぞれ象徴的な意味があります。

これは、「あたるも八卦、あたらぬも八卦・・」の、あの八卦で、

『易経』は、いわゆる「易」としての占いの側面もありますが、

一方では、儒学の世界観をある意味合理的に説明している思想書でもあり、

陸羽も、幼少時より学んできたと伝えられています。

(陸羽というペンネームも易の卦で決められたようです。)

一般に「茶経」の精神は、儒学と仏教と道教の結合と言われることもあるのですが、

専門家の間では見解が分かれており、定見はありません。

「茶経」のテキスト上では、仏教と道教への直接の言及は皆無で、

ただ儒学への言及があり、特に『易経』からの参照が散見されます。

ここの風炉の足の文字についても、『易経』を踏まえています。

それぞれの卦の意味は、「坎」=「水」、「巽」=「風」、「离」=「火」で、

現物の茶道具の形象を象徴していると考えられます。

上中下の位置を指定しているので、その順に記すと、

上 : 「坎」=「水」釜の中の水(湯)

中 : 「离」=「火」風炉の中で火をおこす木炭

下 : 「巽」=「風」風炉の下に通る風

となります。

(参照:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 82ページ、「中国喫茶文化史」岩波 151ページ)

「体は五行を均しくし、百疾を去る」・・・

原文は、「体均五行去百疾」です。

五行は、中国古代からある自然哲学の一つで、

木・火・土・金・水の五つを、万物を生じせしめる五元素と考えます。

風炉は、金属(金)で作られていて、釜には湯(水)がある。

燃料の木炭(木)が燃えて(火)、燃えると灰かす(土)になるので、

五行すべてが均しく備わっている。

病気は五臓から起こるが、風炉には万物の五元素があるので、

茶はどんな病気にも効果がある、という趣旨になります。

(参照:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 82ページ)

「聖唐が胡を滅ぼした明年に鋳る」・・・

原文は、「聖唐滅胡明年鋳」、

唐が胡を滅ぼした翌年にこの風炉を鋳る、の意です。

「茶経」の中では、具体的な年代の記述がある唯一の箇所です。

胡は、北方異民族の匈奴のことで、

唐が匈奴と争ったというのは、陸羽の同時代に照らすと、

安史の乱(755年-763年)のことを指すと考えられます。

安史の乱は、玄宗治世、西域出身の節度使・安禄山らによる反乱で、

陸羽も戦乱を逃れるため、江南の地、太湖の南へ移動しています。

乱が平定されたのが763年なので、その翌年764年に、

この風炉が作られたと考えるのが通説なのですが、

布目さんは、玄宗と粛宗(756年即位)が長安に帰還した757年、

その翌年の758年に鋳造とする説を掲げています。

(参照:布目潮渢共著「中国の茶書」平凡社東洋文庫 59ページ)

ただ、年数の問題は専門的には大切だと思うのですが、

陸羽はここで、刻むべき7文字「聖唐滅胡明年鋳」を指定しているで、

実際の年度そのものよりも、その7文字にどんな意味合いがあるのか、

どうして風炉にその文字を刻まなければならないか、

安史の乱と「茶経」の精神性にはどんな関連があるのか・・

そもそもこの箇所は原文オリジナルにあるのか、後代の加筆の可能性はないか、

、、、等々を疑問に感じてしまいます。

布目さんの本を読んでも、その点はいま一つよく理解できませんでした。

機会があれば、また調べてみたいと考えています。

それでは続きは次回で。

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2017-01-17T15:18:37+00:002011年2月26日|Categories: 中国茶ブログぼちぼち日記, 陸羽「茶経」 by ぼちぼち|Tags: , |

茶経における「餅茶」の飲み方、茶器について

陸羽の「茶経」を読む、第8回目です。

今回は、陸羽の時代の茶「餅茶」の飲み方についてです。

餅茶の飲み方については、第5章「茶の煮立て方」で触れてはいるのですが、

作法やレシピとしての体系だった説明ではなく、

どちらかと言うと、茶を淹れるにあたっての注意事項といった風の記述です。

実は、「茶経」という本では、茶の飲み方そのものよりも、

道具についての具体的な記述が、第4章の「茶器」にあります。

陸羽は、個々の茶器・茶道具を列挙し、詳細に説明をしています。

この茶器についての具体的な記述を読むことによって、

間接的に、茶の飲み方についても様々な想像ができるようになっています。

また、日本の茶道で使われる茶道具は、

ここの「茶経」第4章「茶器」に、ほとんどその原型が見られるようです。

なので、専門家の方たちの間では、

この第4章の記述に、陸羽式の「茶道」を見出す傾向があります。

唐の封演のエッセイ「封氏聞見記」には、

次のような記録があります。

「楚の人、陸鴻漸(陸羽)は茶論(「茶経」)をつくり、

茶の功効ならびに煎茶・炙茶の法を説き、茶具の二十四事を造り、

都統籠(茶器籠)を以て貯え、遠近傾慕し、好事の物、家に一副を蔵す。

常伯熊なる者あり、また鴻漸(陸羽)の論に因り、広く潤色す。

ここにおいて茶道大いに行われ、王公朝士飲まざる者なし。」

(孫引き元 :布目潮渢「中国喫茶文化史」岩波現代文庫 128ページ)

陸羽は「茶経」で、24の茶器を指定しました。

第4章本文では、25(付属品を含めると28)の茶器の列挙がありますが、

封演の記録では、数が24となっています。

また、「茶経」第9章「略式の茶」の本文でも、

第4章の茶器の説明を受けて、

「城邑の中、王公の門では、二十四器の一つが欠けても、

茶は廃れるのである。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 325ページ)

と、茶器の数が24と変更されています。

(それにしても、一つも欠けてはならない、と言うのは、

 なかなか厳しい宣言です。)

ですので、茶器の数が25(28)→24となっているのは、

数え間違いではなく、なにか意図的な変更が窺われます。

布目さんの解説にはこう書かれています。

「二十四を聖数として挙げたのであろうが、その根拠は明確ではない。

・・『礼記』では、一年を十五日ごとに名称をつけた二十四節記がある。

・・『晋書』には二十四友があり、また、唐の太宗の二十四の功臣もある。

・・さらに、六を聖数とし、その四倍の二十四も考えられる。」

(引用元: 同上 328ページ 一部編集)

特に、二十四節気に見られるように、

24という数は、儒教において尊ばれる数字のようです。

陸羽は、自ら設定した茶器の数を、

儒教的な世界観になぞらえようとしたのかもしれません。

上に引用した「封氏聞見記」では、この24の茶器を使った茶道が、

常伯熊という人物によって潤色され、広められたと書かれています。

ただ、「茶道」という言葉は、陸羽の「茶経」の中にはありません。

「茶経」には、日本の茶道におけるお手前や作法の記述もありません。?

陸羽が文章として留めるのにこだわったのは、茶器についての記述です。

次回は、茶器について触れてみたいと思います。

それでは続きは次回で。

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陸羽の時代の茶の種類 「餅茶」について

陸羽の「茶経」を読む、第7回目です。

今回は、第6章第3節の前半をもとに、陸羽の時代の茶の種類について

できるだけ簡略にまとめたいと思います。

「飲茶には粗茶・散茶・末茶・餅茶がある。

(粗茶は)切って作り、(散茶は)炒って作り、(末茶は)焙り、(餅茶は)臼づく。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 160ページ 一部字体等変更)

粗茶、散茶、末茶、餅茶の4種類があるとのことなのですが、

実際に「茶経」の中で陸羽が評価し、大いに語っているのは、餅茶についてです。

「茶経」の中の製茶道具(第2章)、製茶法(第3章)、茶器(第4章)、

茶の煮立て方(第5章)など、すべて餅茶を基準に書かれています。

その他の粗茶、散茶、末茶については、

「茶経」においては、残念なこととに、詳細に書かれていません。

なので、布目さんの解説でも、この3種については、

「茶経」以外の文典や習俗の研究から、

おおよその意味が仮説のような形で差し出されているだけです。

「粗茶・・茶の葉を摘まないで、枝ごと取り、そのままあぶって葉を湯に入れ

沸騰させて飲む、もっとも原始的な飲み方ではなかろうか。」

「散茶・・散はばらばらになったもので、ここでは葉茶を指すとしたい。

採茶された葉を火乾しただけの葉茶であろう。」

「末茶・・末は粉末の意にも用いる。煬は乾燥を主にした短時間の火乾とみなしたい。

茶採みした葉を火で乾燥して粉末にするのであろう。」

(同上、161-162ページより引用、編集)

「ではなかろうか」「を指すとしたい」「であろう」「とみなしたい」等

いずれも文意を断定する強い言葉ではなくて、

仮説、推測、あるいは問題提起としての軽い結語となっています。

この中でも、あくまで推察ではあるのですが、

散茶は、現代の一般的な中国茶(散茶茶葉)の原型とも言えますし、

末茶は、日本の抹茶(但し蒸して乾燥)の原型とも言えるでしょう。

それでは、陸羽の勧める「餅茶」とは、どんなお茶なのでしょうか?

餅茶というと、現代でも、円盤の形をしたプーアール茶のことを

餅茶ということがあります。(雲南七子餅茶など)

なので、イメージとしては、この固められた茶のことを思い浮かべます。

もちろん、雲南七子餅茶と唐の餅茶には製法で大きな違いがあり、

また、大きさや形状でも違いがあります。

陸羽の時代の餅茶は、銅銭ほどの大きさだったようで、

円形以外にも、四角や花形、靴のような形、水牛の胸のような形など

様々な形をしていたようです。

ただ、両者ともに、固まった固形のお茶という

その外見上のイメージは類似していると思います。

餅茶の製法については、「茶経」第3章2節にこう要約されています。

「晴れた日に茶採みをし、(こしきで)蒸し、(杵臼で)つき、(承の上で)たたき、

(ほいろで)焙り、(さしに)通し、(育に)封じ、茶は乾燥してできあがる。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 67?68ページ)

晴れた日に茶摘みをするのは、これは現代にも通じることで、

雨や湿気が製茶の妨げになるからだと思われます。

特徴的なのは、蒸す工程です。(現代の中国茶に蒸し茶はありません。)

以下、布目さんの解説を基に、餅茶の製法を

簡略にまとめてみます。

1、木製のせいろか素焼き製のこしきをかまどに泥で塗り固め、

 かご入りの茶葉をこしき(せいろ)の中に入れて、蒸します。

2、蒸し終わったら、杵と臼を使って茶葉をつきます。

3、承という四角い石の台に布を敷いて、

 その上で、鉄製の型枠に入れた茶葉を、たたきながら押し固めます。

4、型押しした固形茶を、竹の皮で編んだふるいに並べ、天日で乾かします。

5、乾いた固形茶に、きりで穴を開けます。

6、竹のくしを固形茶の穴に串刺しにして、

 焙炉(ほいろ)という器具の上で火にあぶります。

7、あぶり終わった固形茶を、竹や木の皮をよじった紐でさし通します。

8、木製二段の育という貯蔵ケースに固形茶を入れます。

 茶は上段にいれ、下段には火桶があり、乾燥器として貯蔵、保存します。

以上です。

この餅茶の製法は、陸羽が新しく考え出したものではなく、

すでに魏晋の時代(陸羽の生まれる200年以上前)から行われていた模様です。

(参考:布目潮渢「中国喫茶文化史」岩波現代文庫 86-87ページ)

布目さんの「茶経詳解」には図版も多く、イメージが湧きます。

例えば、1、の蒸す工程は、昔の家のかまどで米を炊く風景を連想しますし、

6、のあぶりの工程は、まるで焼き鳥を焼くような図柄が掲載されています。

(このブログに転載できずに申し訳ありません。)

しかし、正直なところ「茶経」の記述を読んだだけでは、

当時の餅茶の実体はよく分かりません。

陸羽は餅茶の鑑定として、形状や色ツヤ、

また表面の皺の寄り方など、

主に外見上の判断について書いていたりもするのですが、

その検証の仕様もありません。

布目さん自身も陸羽の餅茶を再現する試みをしていますが、

「全体としてよくわからない」と嘆いてもいます。

ただ、「茶経」を読むにあたっては、

当時の茶が、今の一般的な中国茶(茶葉)とは違い、

蒸して固める固形茶であったということは、

とりあえずの事実として理解しておく必要があるでしょう。

次回は、この餅茶の飲み方について触れたいと思います。

それでは続きは次回で。

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