茶経8「餅茶」の飲み方、茶器について

茶経8「餅茶」の飲み方、茶器について

唐代の餅茶イメージ
2011年1月24日タグ: , ,

陸羽の「茶経」を読む、第8回目です。

今回は、陸羽の時代の茶「餅茶」の飲み方についてです。

餅茶の飲み方については、第5章「茶の煮立て方」で触れてはいるのですが、作法やレシピとしての体系だった説明ではなく、

どちらかと言うと、茶を淹れるにあたっての注意事項といった風の記述です。

実は、「茶経」という本では、茶の飲み方そのものよりも、道具についての具体的な記述が、第4章の「茶器」にあります。

陸羽は、個々の茶器・茶道具を列挙し、詳細に説明をしています。

この茶器についての具体的な記述を読むことによって、間接的に、茶の飲み方についても様々な想像ができるようになっています。

また、日本の茶道で使われる茶道具は、ここの「茶経」第4章「茶器」に、ほとんどその原型が見られるようです。

なので、専門家の方たちの間では、この第4章の記述に、陸羽式の「茶道」を見出す傾向があります。

唐の封演のエッセイ「封氏聞見記」には、次のような記録があります。

「楚の人、陸鴻漸(陸羽)は茶論(「茶経」)をつくり、茶の功効ならびに煎茶・炙茶の法を説き、茶具の二十四事を造り、都統籠(茶器籠)を以て貯え、遠近傾慕し、好事の物、家に一副を蔵す。

常伯熊なる者あり、また鴻漸(陸羽)の論に因り、広く潤色す。

ここにおいて茶道大いに行われ、王公朝士飲まざる者なし。」

(孫引き元 :布目潮渢「中国喫茶文化史」岩波現代文庫 128ページ)

陸羽は「茶経」で、24の茶器を指定しました。

第4章本文では、25(付属品を含めると28)の茶器の列挙がありますが、封演の記録では、数が24となっています。

また、「茶経」第9章「略式の茶」の本文でも、第4章の茶器の説明を受けて、

「城邑の中、王公の門では、二十四器の一つが欠けても、茶は廃れるのである。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 325ページ)

と、茶器の数が24と変更されています。

(それにしても、一つも欠けてはならない、と言うのは、なかなか厳しい宣言です。)

ですので、茶器の数が25(28)→24となっているのは、数え間違いではなく、なにか意図的な変更が窺われます。

布目さんの解説にはこう書かれています。

「二十四を聖数として挙げたのであろうが、その根拠は明確ではない。

・・『礼記』では、一年を十五日ごとに名称をつけた二十四節記がある。

・・『晋書』には二十四友があり、また、唐の太宗の二十四の功臣もある。

・・さらに、六を聖数とし、その四倍の二十四も考えられる。」

(引用元: 同上 328ページ 一部編集)

特に、二十四節気に見られるように、24という数は、儒教において尊ばれる数字のようです。

陸羽は、自ら設定した茶器の数を、儒教的な世界観になぞらえようとしたのかもしれません。

上に引用した「封氏聞見記」では、この24の茶器を使った茶道が、常伯熊という人物によって潤色され、広められたと書かれています。

ただ、「茶道」という言葉は、陸羽の「茶経」の中にはありません。

「茶経」には、日本の茶道におけるお手前や作法の記述もありません。

陸羽が文章として留めるのにこだわったのは、茶器についての記述です。

次回は、茶器について触れてみたいと思います。

それでは続きは次回で。

小林

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