陸羽

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茶を飲む人数と碗数について

だいぶ間が空いてしまいましたが、陸羽「茶経」を読む12回目です。

基本的に「茶経」第6章を読み進めるかたちでブログを書いていましたので、

今回は第6章の最後の段を読んでみたいと思います。

「さて美味で香り高い茶は、その碗数は三。これに次ぐ碗数は五。

もし座客の数が五人になれば三碗を行い、七人になれば五碗を行う。

もし六人以下なら、碗数を定めない。

ただ一人分だけ足りないときは、その雋永(ぜんえい)で欠けている人の分を補う。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 167ページ)

ここは、どうもよくわかりにくい箇所です。

布目さんの解説でも、正直、上記の訳以外に解説らしい解説はなく、

「理解の不十分な点を残した」と締めくくっています。

淡交社「茶経詳解」より前、1976年初版の東洋文庫「中国の茶書」においては、

「茶会の常式は奇数の人と定めているが、

偶数の人の時はとくに定めがないということであろうか。」

と書いています。

原文もいたってシンプルで、どう意味を補えばよいか手がかりはありません。

先ず、「碗数」というのが、

茶器の数なのか、茶を淹れる回数なのかがわかりません。

どちらにも解釈できるように読めますし、

また、どちらも間違っているようにも読めます。

茶器(茶碗)の数と解釈すると、

五人で茶を飲むのに三つの茶器、七人で飲むなら五つの茶器、

六人以下なら茶器の数を決めないということになり、

文意そのものは通るには通りますが、

数を指定することになんの意図があるのか不明です。

五人で茶を飲むなら五つの茶器をそろえればいいのではないか

という素朴な疑問が解消されません。

また、碗数を茶を淹れる(煮る)回数と解釈すると、

五人で茶を飲むのに三回、七人なら五回、

六人以下なら回数を定めないということになり、

これも意図のよくわからない文章になります。

そもそも五人のことで数を定め、しかし六人以下では定めないというのも、

五人は六人以下なのだから土台矛盾な表現で、

布目さんは、六人以下というのを偶数と解釈すべきかと言っていますが、

そうすると、六人や四人の偶数で茶を飲むことと、

三人や五人の奇数で茶を飲むことのあいだに

いったいどんな違いがあるのかわかり兼ねます。

もしかしたら、陸羽のよって立つ「易経」の世界観に照らして、

三、五という奇数になにか特別な意味を見ることができるかもしれませんが、

「茶経」四章のように道具の数にこだわるのとは違って、

茶を飲む集いの人間の数にこだわるのは、

あまりニュートラルではないと思われます。

最後の文「一人分だけ足りないときは、雋永で補う」の「雋永」は、

「第一煮の味のすぐれているところ」の意です。

茶器が一人分足りないのか、茶の分量が一人分足りないのかわからないのですが

その足りない分は、はじめの茶の一番美味しいところで補うということで、

ここもどうにも文意がつかみにくい箇所です。

補うためにはじめにとっておくのなら、それは足りないわけではありません。

足りているのでそれで補えるわけで、

本当に足りないのなら、補えないということになります。

原文は「但闕一人而已、其雋永補所闕人」です。

ここはもしかしたら、一人分の茶が足りない、というのではなく、

茶を飲むべき人が一人足りない、ということかもしれません。

一人足りないなら、茶でその足りない人の不在を補おう、

その人のために一番美味しい茶をとっておこう、

もしくは、その人のために美味しい茶を飲もう、と敷衍できます。

こう読むのなら、文意が成り立つのではないかと思います。

ただ、いずれにせよ、この段で陸羽がなにを表現しようとしたのか、

いまひとつよく理解ができません。

また機会があれば考えてみたいと思います。

追記
私がこのブログをさぼっている間に、布目さんの「茶経詳解」が文庫化されていました。
しかもKindle版まであります。中国史や中国茶に興味のある方はぜひご一読を。

茶経
2017-01-17T15:18:36+00:00 December 22nd, 2014|Categories: 中国茶ブログぼちぼち日記, 陸羽「茶経」 by ぼちぼち|Tags: , , |

ああ天が万物を育てるのに・・・陸羽の嘆き

陸羽の「茶経」を読む、第11回目です。

第8回-10回までは、餅茶の飲み方として、

代表的な茶器「風炉」の説明などをいたしました。

今回は、第6章に戻り、続きの第4節から読みたいと思います。

「ああ天が万物を育てるのに、すべてきわめて巧妙なところがある。

人がつくるものは、ただ浅薄安易をあさっている。

風雨から遮蔽されているのは家屋であり、家屋は優れ極めている。

寒さを防ぐために着ているのは衣類であり、衣類は優れ極めている。

飲と食は飽くほどしていて、食と酒はみな優れ極めている。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 164ページ)

この箇所では、陸羽の伝えたいことは、

表面上、かなり明快に書かれています。

天の育てる万物は巧妙だが、

しかし、人がつくるもの(家や服や食べもの)は、

いかに優れていようとも、浅薄安易なものである。

このように、陸羽が自分の意見を感情的に表現するのは、

ストイックな描写の多い「茶経」の中では、とても珍しいと思います。

布目さんは、さらにこう解説しています。

「天然自然のものでよいのに、衣食住に人工の華美を極めていることを批判し、

暗に茶こそ天然の美味があるとを述べようとしている」

(布目潮渢「中国喫茶文化史」岩波書店 179ページ)

華美な衣食住への批判的なまなざしがあるのは確かだと思います。

しかし、「暗に茶にこそ天然の美味がある」とは、どうでしょうか?

茶が天に育まれたものなのか、人のつくったものなのか、

陸羽はここで、はっきりと明言はしていません。

文意を反語として理解すれば、布目さんのような解釈は正当だと思います。

が、実際には、この節の要は、陸羽が反語でしか語れないということ、

正にそのものの中にあるのではないでしょうか。

茶は、ある時は天のものでもあるし、ある時は人のものでもあると、私は考えます。

それは、天のものとも言えないし、人のものとも言えない、

そういう二重性も孕んでいると思います。

茶が文化として普及、流通するならば、

そこには、家屋や衣類や飲食飲酒と同様に、

天のものではない要素がどんどんと増えていくでしょう。

しかし、一方で、そうして広く普及した茶にも、

天のものとしての要素は、幾許かなりとも備わっているはずです。

なぜなら、どんな茶葉も、自然の恵みの中で育まれるからです。

「ああ天が万物を育てるのに、すべてきわめて巧妙なところがある」

陸羽の嘆きは、そうした茶の矛盾にこそあるのかもしれません。

それでは続きは次回で。

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2017-01-17T15:18:37+00:00 October 2nd, 2011|Categories: 中国茶ブログぼちぼち日記, 陸羽「茶経」 by ぼちぼち|Tags: , |

「茶経」の茶器 風炉2

陸羽の「茶経」を読む、第10回目です。

今回は、茶器の風炉(ふろ/ふうろ)についての続きです。

該当の箇所の後半を引用いたします。

「三窓の上に、古体の文字で六字を横書きにし、

一窓の上に、『伊公』の二字を書き、

一窓の上に、『羹陸』の二字を書き、

一窓の上に、『氏茶』の二字が書いてある。

これは『羹(あつもの)では伊公、茶では陸氏』という意味である。

炉の中に中高い小山を置き、三個の格を設け、

その一格に翟(きじ)の図がある。

翟は火の禽(とり)である。离という一卦を画する。

その一格に彪(虎)の図がある。

彪は風の獣である。巽という一卦を画する。

その一格に魚の図がある。

魚は水の虫(動物)である。坎という一卦を画する。

巽は風をつかさどり、离は火をつかさどり、坎は水をつかさどる。

風はよく火をおこし、火はよく水をあたためる。

故にその三卦を備える。

風炉の飾り文様には、連ねた葩(花)、垂れた蔦、曲水、

四角な文様の類がある。

その炉は或いは鉄を鍛えてつくり、或いは泥をめぐらせてつくる。

その灰承は三足の鉄盤でつくり、炉を載せる。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 79-80ページ)

風炉の横に三つの窓があり、文字が書かれています。

風炉を図示した場合、そこに左から二文字ずつを並べると

「茶氏」「陸羹」「公伊」となり、そして、これを右から意味わけすると

「伊公羹」「陸氏茶」となります。

「羹」は、”羹(あつもの)に懲りて膾を吹く”のことわざにある「羹」です。

中国の古代から伝わる肉入りのスープのことで、

殷の時代の湯王に仕えた伊尹(いいん)が、

その羹料理の名人として有名でした。

陸羽はその羹の名人と名を連ねるようにして、

「羹なら伊公、お茶なら陸氏」と自ら褒め称えます。

(参照:同上 83ページ)

次に続く「中高い小山」は、原文は「しちりん」とも解釈されうる言葉で

イメージすると、鼎を逆さにしたようなものです。

三本の「格(わく)」があり、風炉をはめこむような形にして

火元の置き台として使用したのではないかと思います。

(布目さんの本は語義の解説は豊富にあるのですが、

使用法が簡明に書いてなく、これはわたしの推察になります。)

そして、その三本の格にはそれぞれ図があり、

その三つの図が、やはり五行の思想に裏打ちされた意味を担います。

魚(水の動物): 「坎」=「水」

雉(火の鳥): 「离」=「火」

彪(風の獣): 「巽」=「風」

(参照:同上 84-85 ページ)

このように、陸羽の茶道の中心となる茶道具の風炉は、

易経の五行思想に典拠しながら

万物の要素を体現するものとして意味づけが行われています。

それは、茶を飲むということが

自然と人とのつながり、その接点の一つとして、

陸羽が考えていたことの現われでもあると思います。

それでは続きは次回で。

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2017-01-17T15:18:37+00:00 May 20th, 2011|Categories: 中国茶ブログぼちぼち日記, 陸羽「茶経」 by ぼちぼち|Tags: , , |

「茶経」の茶器 風炉1

陸羽の「茶経」を読む、第9回目です。

今回は、茶器の風炉(ふろ/ふうろ)についてです。

該当の箇所の前半を引用いたします。

「風炉(灰うけ)

風炉は銅や鉄を鋳造してつくる。昔の鼎(かなえ)の形のようで、厚みは三分、

縁の広さは九分、炉の中は空洞で厚みは六分、そこには、こてで土が塗りつけてある。

炉には三足があり、古体の文字で二十一字書いてある。

一足には『坎(かん)が上に、巽(そん)が下に、离(り)が中に』とある。

一足には『体は五行を均しくし、百疾を去る』とある。

一足には『聖唐が胡を滅ぼした明年に鋳る』とある。

その三足の間に三個の窓があり、底に一個の窓があり、

そこは通風と燃えかすを落とすところとした。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 79ページ)

風炉は、日本の茶道で現在も使われているものと用途が同じです。

陸羽が茶経で説いている茶器の中では中心的な存在で、

お湯を沸かすための釜の台として使われます。

銅や鉄で鋳造され、その厚みは0.9センチ(1分=約0.3センチ)、

中の空洞が1.8センチで、内側には土が塗られています。

また、上の円をなす縁どりの厚み部分は、2.7センチの幅で作ります。

鼎のように三本の足があり、それぞれ7文字ずつ、合計21文字を刻みます。

「古体の文字」とは、隷書体のことのようです。

それぞれの文字の意味は、以下の通りです。

「坎(かん)が上に、巽(そん)が下に、离(り)が中に」・・・

原文は「坎上巽下离亍中」です。

「坎」「巽」「离」は、『易経』の八卦で、それぞれ象徴的な意味があります。

これは、「あたるも八卦、あたらぬも八卦・・」の、あの八卦で、

『易経』は、いわゆる「易」としての占いの側面もありますが、

一方では、儒学の世界観をある意味合理的に説明している思想書でもあり、

陸羽も、幼少時より学んできたと伝えられています。

(陸羽というペンネームも易の卦で決められたようです。)

一般に「茶経」の精神は、儒学と仏教と道教の結合と言われることもあるのですが、

専門家の間では見解が分かれており、定見はありません。

「茶経」のテキスト上では、仏教と道教への直接の言及は皆無で、

ただ儒学への言及があり、特に『易経』からの参照が散見されます。

ここの風炉の足の文字についても、『易経』を踏まえています。

それぞれの卦の意味は、「坎」=「水」、「巽」=「風」、「离」=「火」で、

現物の茶道具の形象を象徴していると考えられます。

上中下の位置を指定しているので、その順に記すと、

上 : 「坎」=「水」釜の中の水(湯)

中 : 「离」=「火」風炉の中で火をおこす木炭

下 : 「巽」=「風」風炉の下に通る風

となります。

(参照:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 82ページ、「中国喫茶文化史」岩波 151ページ)

「体は五行を均しくし、百疾を去る」・・・

原文は、「体均五行去百疾」です。

五行は、中国古代からある自然哲学の一つで、

木・火・土・金・水の五つを、万物を生じせしめる五元素と考えます。

風炉は、金属(金)で作られていて、釜には湯(水)がある。

燃料の木炭(木)が燃えて(火)、燃えると灰かす(土)になるので、

五行すべてが均しく備わっている。

病気は五臓から起こるが、風炉には万物の五元素があるので、

茶はどんな病気にも効果がある、という趣旨になります。

(参照:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 82ページ)

「聖唐が胡を滅ぼした明年に鋳る」・・・

原文は、「聖唐滅胡明年鋳」、

唐が胡を滅ぼした翌年にこの風炉を鋳る、の意です。

「茶経」の中では、具体的な年代の記述がある唯一の箇所です。

胡は、北方異民族の匈奴のことで、

唐が匈奴と争ったというのは、陸羽の同時代に照らすと、

安史の乱(755年-763年)のことを指すと考えられます。

安史の乱は、玄宗治世、西域出身の節度使・安禄山らによる反乱で、

陸羽も戦乱を逃れるため、江南の地、太湖の南へ移動しています。

乱が平定されたのが763年なので、その翌年764年に、

この風炉が作られたと考えるのが通説なのですが、

布目さんは、玄宗と粛宗(756年即位)が長安に帰還した757年、

その翌年の758年に鋳造とする説を掲げています。

(参照:布目潮渢共著「中国の茶書」平凡社東洋文庫 59ページ)

ただ、年数の問題は専門的には大切だと思うのですが、

陸羽はここで、刻むべき7文字「聖唐滅胡明年鋳」を指定しているで、

実際の年度そのものよりも、その7文字にどんな意味合いがあるのか、

どうして風炉にその文字を刻まなければならないか、

安史の乱と「茶経」の精神性にはどんな関連があるのか・・

そもそもこの箇所は原文オリジナルにあるのか、後代の加筆の可能性はないか、

、、、等々を疑問に感じてしまいます。

布目さんの本を読んでも、その点はいま一つよく理解できませんでした。

機会があれば、また調べてみたいと考えています。

それでは続きは次回で。

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2017-01-17T15:18:37+00:00 February 26th, 2011|Categories: 中国茶ブログぼちぼち日記, 陸羽「茶経」 by ぼちぼち|Tags: , |

茶経における「餅茶」の飲み方、茶器について

陸羽の「茶経」を読む、第8回目です。

今回は、陸羽の時代の茶「餅茶」の飲み方についてです。

餅茶の飲み方については、第5章「茶の煮立て方」で触れてはいるのですが、

作法やレシピとしての体系だった説明ではなく、

どちらかと言うと、茶を淹れるにあたっての注意事項といった風の記述です。

実は、「茶経」という本では、茶の飲み方そのものよりも、

道具についての具体的な記述が、第4章の「茶器」にあります。

陸羽は、個々の茶器・茶道具を列挙し、詳細に説明をしています。

この茶器についての具体的な記述を読むことによって、

間接的に、茶の飲み方についても様々な想像ができるようになっています。

また、日本の茶道で使われる茶道具は、

ここの「茶経」第4章「茶器」に、ほとんどその原型が見られるようです。

なので、専門家の方たちの間では、

この第4章の記述に、陸羽式の「茶道」を見出す傾向があります。

唐の封演のエッセイ「封氏聞見記」には、

次のような記録があります。

「楚の人、陸鴻漸(陸羽)は茶論(「茶経」)をつくり、

茶の功効ならびに煎茶・炙茶の法を説き、茶具の二十四事を造り、

都統籠(茶器籠)を以て貯え、遠近傾慕し、好事の物、家に一副を蔵す。

常伯熊なる者あり、また鴻漸(陸羽)の論に因り、広く潤色す。

ここにおいて茶道大いに行われ、王公朝士飲まざる者なし。」

(孫引き元 :布目潮渢「中国喫茶文化史」岩波現代文庫 128ページ)

陸羽は「茶経」で、24の茶器を指定しました。

第4章本文では、25(付属品を含めると28)の茶器の列挙がありますが、

封演の記録では、数が24となっています。

また、「茶経」第9章「略式の茶」の本文でも、

第4章の茶器の説明を受けて、

「城邑の中、王公の門では、二十四器の一つが欠けても、

茶は廃れるのである。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 325ページ)

と、茶器の数が24と変更されています。

(それにしても、一つも欠けてはならない、と言うのは、

 なかなか厳しい宣言です。)

ですので、茶器の数が25(28)→24となっているのは、

数え間違いではなく、なにか意図的な変更が窺われます。

布目さんの解説にはこう書かれています。

「二十四を聖数として挙げたのであろうが、その根拠は明確ではない。

・・『礼記』では、一年を十五日ごとに名称をつけた二十四節記がある。

・・『晋書』には二十四友があり、また、唐の太宗の二十四の功臣もある。

・・さらに、六を聖数とし、その四倍の二十四も考えられる。」

(引用元: 同上 328ページ 一部編集)

特に、二十四節気に見られるように、

24という数は、儒教において尊ばれる数字のようです。

陸羽は、自ら設定した茶器の数を、

儒教的な世界観になぞらえようとしたのかもしれません。

上に引用した「封氏聞見記」では、この24の茶器を使った茶道が、

常伯熊という人物によって潤色され、広められたと書かれています。

ただ、「茶道」という言葉は、陸羽の「茶経」の中にはありません。

「茶経」には、日本の茶道におけるお手前や作法の記述もありません。?

陸羽が文章として留めるのにこだわったのは、茶器についての記述です。

次回は、茶器について触れてみたいと思います。

それでは続きは次回で。

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2017-01-17T15:18:37+00:00 January 24th, 2011|Categories: 中国茶ブログぼちぼち日記, 陸羽「茶経」 by ぼちぼち|Tags: , , , |

陸羽の時代の茶の種類 「餅茶」について

陸羽の「茶経」を読む、第7回目です。

今回は、第6章第3節の前半をもとに、陸羽の時代の茶の種類について

できるだけ簡略にまとめたいと思います。

「飲茶には粗茶・散茶・末茶・餅茶がある。

(粗茶は)切って作り、(散茶は)炒って作り、(末茶は)焙り、(餅茶は)臼づく。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 160ページ 一部字体等変更)

粗茶、散茶、末茶、餅茶の4種類があるとのことなのですが、

実際に「茶経」の中で陸羽が評価し、大いに語っているのは、餅茶についてです。

「茶経」の中の製茶道具(第2章)、製茶法(第3章)、茶器(第4章)、

茶の煮立て方(第5章)など、すべて餅茶を基準に書かれています。

その他の粗茶、散茶、末茶については、

「茶経」においては、残念なこととに、詳細に書かれていません。

なので、布目さんの解説でも、この3種については、

「茶経」以外の文典や習俗の研究から、

おおよその意味が仮説のような形で差し出されているだけです。

「粗茶・・茶の葉を摘まないで、枝ごと取り、そのままあぶって葉を湯に入れ

沸騰させて飲む、もっとも原始的な飲み方ではなかろうか。」

「散茶・・散はばらばらになったもので、ここでは葉茶を指すとしたい。

採茶された葉を火乾しただけの葉茶であろう。」

「末茶・・末は粉末の意にも用いる。煬は乾燥を主にした短時間の火乾とみなしたい。

茶採みした葉を火で乾燥して粉末にするのであろう。」

(同上、161-162ページより引用、編集)

「ではなかろうか」「を指すとしたい」「であろう」「とみなしたい」等

いずれも文意を断定する強い言葉ではなくて、

仮説、推測、あるいは問題提起としての軽い結語となっています。

この中でも、あくまで推察ではあるのですが、

散茶は、現代の一般的な中国茶(散茶茶葉)の原型とも言えますし、

末茶は、日本の抹茶(但し蒸して乾燥)の原型とも言えるでしょう。

それでは、陸羽の勧める「餅茶」とは、どんなお茶なのでしょうか?

餅茶というと、現代でも、円盤の形をしたプーアール茶のことを

餅茶ということがあります。(雲南七子餅茶など)

なので、イメージとしては、この固められた茶のことを思い浮かべます。

もちろん、雲南七子餅茶と唐の餅茶には製法で大きな違いがあり、

また、大きさや形状でも違いがあります。

陸羽の時代の餅茶は、銅銭ほどの大きさだったようで、

円形以外にも、四角や花形、靴のような形、水牛の胸のような形など

様々な形をしていたようです。

ただ、両者ともに、固まった固形のお茶という

その外見上のイメージは類似していると思います。

餅茶の製法については、「茶経」第3章2節にこう要約されています。

「晴れた日に茶採みをし、(こしきで)蒸し、(杵臼で)つき、(承の上で)たたき、

(ほいろで)焙り、(さしに)通し、(育に)封じ、茶は乾燥してできあがる。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 67?68ページ)

晴れた日に茶摘みをするのは、これは現代にも通じることで、

雨や湿気が製茶の妨げになるからだと思われます。

特徴的なのは、蒸す工程です。(現代の中国茶に蒸し茶はありません。)

以下、布目さんの解説を基に、餅茶の製法を

簡略にまとめてみます。

1、木製のせいろか素焼き製のこしきをかまどに泥で塗り固め、

 かご入りの茶葉をこしき(せいろ)の中に入れて、蒸します。

2、蒸し終わったら、杵と臼を使って茶葉をつきます。

3、承という四角い石の台に布を敷いて、

 その上で、鉄製の型枠に入れた茶葉を、たたきながら押し固めます。

4、型押しした固形茶を、竹の皮で編んだふるいに並べ、天日で乾かします。

5、乾いた固形茶に、きりで穴を開けます。

6、竹のくしを固形茶の穴に串刺しにして、

 焙炉(ほいろ)という器具の上で火にあぶります。

7、あぶり終わった固形茶を、竹や木の皮をよじった紐でさし通します。

8、木製二段の育という貯蔵ケースに固形茶を入れます。

 茶は上段にいれ、下段には火桶があり、乾燥器として貯蔵、保存します。

以上です。

この餅茶の製法は、陸羽が新しく考え出したものではなく、

すでに魏晋の時代(陸羽の生まれる200年以上前)から行われていた模様です。

(参考:布目潮渢「中国喫茶文化史」岩波現代文庫 86-87ページ)

布目さんの「茶経詳解」には図版も多く、イメージが湧きます。

例えば、1、の蒸す工程は、昔の家のかまどで米を炊く風景を連想しますし、

6、のあぶりの工程は、まるで焼き鳥を焼くような図柄が掲載されています。

(このブログに転載できずに申し訳ありません。)

しかし、正直なところ「茶経」の記述を読んだだけでは、

当時の餅茶の実体はよく分かりません。

陸羽は餅茶の鑑定として、形状や色ツヤ、

また表面の皺の寄り方など、

主に外見上の判断について書いていたりもするのですが、

その検証の仕様もありません。

布目さん自身も陸羽の餅茶を再現する試みをしていますが、

「全体としてよくわからない」と嘆いてもいます。

ただ、「茶経」を読むにあたっては、

当時の茶が、今の一般的な中国茶(茶葉)とは違い、

蒸して固める固形茶であったということは、

とりあえずの事実として理解しておく必要があるでしょう。

次回は、この餅茶の飲み方について触れたいと思います。

それでは続きは次回で。

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2017-01-17T15:18:38+00:00 December 6th, 2010|Categories: 中国茶ブログぼちぼち日記, 陸羽「茶経」 by ぼちぼち|Tags: , , |

茶経 「飲茶には粗茶・散茶・末茶・餅茶がある。」

陸羽の「茶経」を読む、第6回目です。

今回は、前回に引き続き、第6章第3節から読みたいと思います。

「飲茶には粗茶・散茶・末茶・餅茶がある。

(粗茶は)切って作り、(散茶は)炒って作り、(末茶は)焙り、(餅茶は)臼づく。

瓶缶の中に貯え、湯を注ぐ。これを庵茶(えんちゃ)という。

或いは葱、姜、棗、橘の皮、茱萸(しゅゆ)、薄荷などを用い、これを百沸する。

或いは浮き上がらせて滑らかにしたり、或いは煮て沫を取り去るようなことをするが

これらは溝渠の間の棄水になるだけなのに、このような習俗が止まない。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 160ページ 一部字体等変更)

内容を見ていく前に、先ず、同じ箇所の原文を引用いたします。

「飲有觕茶散茶末茶餅茶者。乃斫。乃熬。乃煬。乃舂。

貯於瓶缶中。以湯沃焉。謂之庵※茶。

或用葱薑棗橘皮茱萸薄訶※之等。煮之百沸。

或揚令滑。或煮去沫。斯溝渠間棄水耳。而習俗不已。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 160ページ 一部字体変更)

※「庵」は、正しくは「疒」。「訶」は、正しくは「くさかんむり」あり。

ここは文意がやや読み取りづらい箇所かもしれません。

一文目においては、当時のお茶の種類を4つあげています。

そして、続く二文目以降は、その4種類の茶のそれぞれの製法を、

動詞一語で簡略に説明しているようです。

・粗茶=「斫」切る

・散茶=「熬」炒る

・末茶=「煬」焙る

・餅茶=「舂」臼でつく

ここに対応関係があることは確かだと思います。

ただ、続くそれ以降の文章は(「瓶缶の中に貯え・・」以降です)

お茶の種類の説明を書いているわけではないようです。

陸羽は、ここで、当時の飲茶のいくつかの習俗を

結語で、「棄て水になるだけ」という言葉で、否定しています。

否定している飲み方は、以下の習俗です。

・瓶や缶に入れた茶にお湯を注ぐ庵茶(えんちゃ)という飲み方

・葱、姜、棗、橘、茱萸(しゅゆ)、薄荷等と混ぜ沸騰させる飲み方

・茶を浮き上がらせて滑らかにする飲み方

・茶を煮て沫を取り除く飲み方

よく読むとわかるのは、冒頭のお茶の種類についての文章と、

それ以降の後半部の、飲茶の習俗を否定している文章は、

わけて考える必要があるだろう、ということです。

粗茶/切る=お湯を注ぐ庵茶

散茶/炒る=葱、姜、棗等を混ぜ沸騰させる・・

・・・・

という風に、もし前半と後半で対応関係があると思って読んでしまうと

一つひとつの言葉の意味のつかみ辛さも相まって、

一体なにが書いてるのかわからなくなってしまいます。

(というか、はじめ私がそう読んで混乱しただけかもしれませんが、、)

(お茶の種類について)

「飲茶には粗茶・散茶・末茶・餅茶がある。

(粗茶は)切って作り、(散茶は)炒って作り、(末茶は)焙り、(餅茶は)臼づく。」

——————————————————————————————–

(習俗の否定)

「瓶缶の中に貯え、湯を注ぐ。これを庵茶(えんちゃ)という。

或いは葱、姜、棗、橘の皮、茱萸(しゅゆ)、薄荷などを用い、これを百沸する。

或いは浮き上がらせて滑らかにしたり、或いは煮て沫を取り去るようなことをするが

これらは溝渠の間の棄水になるだけなのに、このような習俗が止まない。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 160ページ 一部字体等変更)

この節は、以上のように、主旨を二つにわけて読みます。

前置きが長くなってしまいました。

次回は、お茶の種類について触れたいと思います。

それでは続きは次回で。

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茶経 「時に広まり世俗に浸みわたり、国朝(唐)に盛んになった」

陸羽の「茶経」を読む、第5回目です。

今回は、前回第6章第2節の続きから読みたいと思います。

「時に広まり世俗に浸みわたり、国朝(唐)に盛んになった。

両都(長安と洛陽)や荊州・渝州地方では、比屋(ひおく)の飲料となった。」

(引用元:布目潮渢「茶経詳解」淡交社 158ページ)

この節では、唐の時代に、お茶が社会の中に広がってゆく様子が記述されています。

前回のブログでは、禅寺や道教寺での喫茶の普及について書きましたが、

ここでは、一般の人々も茶を飲むようになってきたことが分かります。

比屋の飲料となった。

この「比屋(ひおく)」という言葉は、「軒なみ」という意味です。

(布目潮渢「茶経詳解」淡交社 160ページ参考)

軒なみに、街中のどの家々でも茶が飲まれるようになった、というわけで

飲茶が広く普及していった様子がとてもよくうかがわれます。

そして、茶が庶民の嗜好品になっていく、

そのような背景の中で陸羽の「茶経」が書かれたということは、

とても重要だと思います。

実際、「茶経」には、茶を飲むにあたっての当時のハウツー的な面もあり、

茶の一般への普及が、自然にそうした記述を求めたとも言えます。

もし茶が一部の階層だけのものであったら

「茶経」という本は書かれなかった(読まれなかった)かもしれません。

「荊州」は、今の湖北省の荊州で、陸羽の故郷に近い場所です。

「渝州」は、今の四川省の重慶市で、内陸の茶の産地です。

(布目潮渢「中国喫茶文化史」岩波書店 108ページ参考)

内陸産の茶は長江を伝い、陸羽の故郷や江南の諸都市へ

そして、長江から華北への大運河を伝い、黄河沿いの都・洛陽、長安へ、

茶は嗜好品、必需品として、広い範囲に伝播したと考えられます。

また、飲茶の習慣は、漢民族だけでなく、

北方の遊牧民族・回鶻(ウイグル)や、西方の吐蕃(チベット)にも浸透しました。

唐の時代、茶馬交易が始まっていたことが、漢語の文献に残されています。

(参考元:同上 213-216ページ)

一方、茶が商品として流通するのと相前後して、

唐朝は、貢茶制度を茶農に義務化しました。

これは、皇帝へ茶を無償で献上する制度で、

農民を大変に苦しめたと伝えられています。

また、陸羽の晩年には、すでに茶への課税が施行されました。

(参考元:成田重行「茶聖陸羽」淡交社 167ページ)

「茶経」は、茶についての多角的な書物ですが、

貢茶制度や茶の税政、流通ルートのことなど

社会経済的な事柄については、直接言及されていません。

特に貢茶制度について、陸羽はどう考えていたのか、

その真意を知りたい気もします。

それでは続きは次回で。

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陸羽の年少時代、禅寺と茶

陸羽の「茶経」を読む、第3回目です。

今回は、陸羽の幼少時代について簡単に触れたいと思います。

陸羽の伝記について日本で出版された本に

成田重行「茶聖陸羽」(淡交社) があります。

その中で、陸羽の年少時代について書かれている箇所を引用いたします。

「『新唐書』『唐才子伝』によれば、陸羽は捨て子で両親ともわからず、

龍蓋寺の智積禅師に拾われた、とある。

智積は唐代の有名な僧で、『紀異録』によると、代宗皇帝から皇宮に招かれ

特別なもてなしを受けたこともある人物である。

陸羽は年少よりその指導を受け仏教について学び、

また智積は茶を好んだため、茶の入れ方を陸羽に教えている。」

(引用元:成田重行「茶聖陸羽」 22ページ)

陸羽は捨て子で、禅寺の僧に拾われて寺で育った、

また、茶の入れ方も僧に習った、とあります。

龍蓋寺は、唐の竟陵県、現在の湖北省天門県に所在しました。

陸羽の生年は、通説では、開元21年(733年)と言われています。

(参考元:布目潮渢「茶経詳解」-『茶経』解説 淡交社 343ページ)

続けて引用いたします。

「『封氏聞見記』によれば、開元年間(玄宗治世の前半713年-741年)、

泰山霊巌寺には降魔大師がおり、”禅を勉強するには寝ないこと、

夕餉(夕食)を食べないこと、そして茶を飲むこと”と教えていた。

自分の茶器をもって茶を煮込んで飲むことも指導している。

これは、のどをうるおし、眠気を払うのに茶が重要な役割をもっていたためで、

平均して毎日40-50杯を飲んだとされている。

禅の修行に大量に茶を用いたことによって、寺院は自ら茶の栽培、

採茶、製造するところとなり、また寺での催事に茶会が行われたことにより、

多くの名茶が生まれ、茶道具などが発展している」

(引用元:成田重行「茶聖陸羽」 86ページ)

飲茶の習慣は、一般の嗜好品として普及する前に、

禅寺において盛んになりました。

若年僧の座禅の修行は、眠気と睡魔との闘いという一面もあり、

夜通し禅を組むために、茶がたくさん飲まれました。

また、禅寺の建立される環境は、標高や天候、水質など

そのまま茶樹の栽培にも適していたため、

茶の生産、製造も寺の管理にて行われていました。

陸羽は、禅寺の僧に拾われて育てられた年少時代に、

まさに茶摘みの段階から茶と関わって生活していたと言えるでしょう。

茶を作り、茶を入れ、禅のために茶を飲む、

そんな風景が、幼少の陸羽にとっての日常でした。

「茶経」第6章第1節の

昏迷と眠気を払うには茶を飲む。

この一文は、そうした自らの経験を背景に、

自然にしたためられた文章とも考えられます。

もっとも、陸羽は禅寺での生活には不満で、

仏典よりも儒学(五経)を勉強したい、と僧に訴えたりします。

そのため、土方や掃除、牛の飼育等の過酷な労働を強いられ、

11歳になるとついに寺を出て、芝居の一座に加わりました。

ただ、陸羽の意思がどうであれ、

その幼少期において禅寺で茶と出会ったということは、

「茶経」の著作、その茶観に、大なり小なり影響を与えていると思います。

ちなみに、陸羽の姓の「陸」は、

陸羽を拾った智積禅師の姓「陸」からとられています。

智積禅師は、陸羽が寺から去った後も、

陸羽を寺に呼んで茶を入れさせた、と伝えられています。

それでは続きは次回で。

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